漆器の歴史
ウルシの特徴は
- 強力な接着力
- 堅牢性
- 美術性
- 加工性
にあります。
|人類とウルシの出会い
ウルシが採取できる樹木は東アジア、東南アジアに限定されています。
いずれも温暖で湿潤な地域です。
広大な広葉樹林が広がる地域でアジアのウルシ文化は始まったと考えられます。
漆と人との出会いは我々が想像をはるかに超えた時代から始まっていたようです。
最初に人はウルシの持つその強力な接着力を発見したと考えられます。
木や竹の先端に鋭利な石器や動物の骨を固定するに極めて威力あるものでした。
水にも強く一度固まった漆はなかなか離脱しません。
やがてその接着力は様々な日常的な木製の建造物、家具、道具や漁具、
武器、農具に利用され、
土器などの強化と装飾のために表面の塗料としても利用されてゆきます。
ウルシの活用は古代の大きな技術革新であったと考えられています。
現在、世界最古の漆の出土品はおおよそ7000年前とされています。
実際には漆の実践的な活用は更にはるか以前から始まっていたと考えるべきです。
証拠として残っていないだけなのです。。
|世界最古の漆塗り
世界最古の漆塗りを施された道具は7000年前の中国長江の浙江省の
遺跡から出土しています。
長江はチベット高原を水源に温暖な広葉樹林帯を形成して上海の近郊の
東シナ海に注いでいます。
その植生は日本に良く似ています。
出土品には漆で石器を木に固定した石斧、石包丁、動物の骨を木に固定した鋤、
漆で彩色された接着した宝飾品なども多くの漆塗り製品があります。
中でも驚くのは出土した漆器としてのお椀です。
その姿は我々が現在使っているものとさほど変わりはありません。
|日本の漆の原点は1万年前??
日本で現在、発見された最古の漆の製品は縄文時代のおおよそ6500年前の
福井県の鳥浜遺跡から発見されている櫛(くし)とされています。
しかし一説では北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡からの漆器が9000年前であったされ
これが世界最古の漆器とのことですが、残念ながらこの漆器は正確な測定前に
焼失しています。
しかし、近年では1万1000年前の漆の木そのもののが鳥浜遺跡から発見されています。
更にDNA鑑定の結果日本の漆の木は中国大陸のものとは別種で固有のもであると
判明しています。
これらの事実からこれまで漆の技術は大陸伝来とされていましたが、
実は漆文化は日本発祥ではなかったかと唱える人たちもいます。
いずれにしても日本人は有史以前から漆を日常の中に取り入れていたことになります。
|日本での漆器の発展
|縄文時代
縄文時代は東日本の日本海側の湿気の多い
豪雪地帯(北海道南部・青森・岩手・秋田・新潟・福井・石川・富山・埼玉など)を
中心とした数多くの遺跡から漆製品が発掘されています。
このころは非常に日本も温暖で北海道地区も漆の栽培には適していたようです。
日常的な道具や装飾品(櫛、腕輪、布、匙、弓など)、土器名などに施され、
朱漆を使った赤を主体にした漆器が目立ちます。
|弥生時代
弥生時代には東北を中心にした漆の文化は後退しているようです。
寒冷化の影響とも言われていますが、出土品は大きく減少しています。
発見もこのころは九州地区が中心になって、大陸から伝来したといわれる
黒色漆が中心色になっています。
稲作も始まった弥生時代は縄文時代の祭礼的な要素の利用から
生産性や機能性を重視へと移っています。
またこの時代は階級社会の進展とともに権威の象徴的な役割を持たせ、
武器や身に着けるものに装飾を施してゆくようになります。
|古代国家~江戸時代の漆器
日本漆器文化は古代国家の成立とともに
その実用性に加えて美術的な技術も発展してゆきます。
為政者の日常品を宝飾しただけではなく、宮殿や神社仏閣の建築物の加飾としても
大いに威力を発揮して権威や神聖の象徴になってゆきます。
奈良時代には遣唐使が派遣されて蒔絵や螺鈿の技法が
伝わり漆技術のもとになっています。
701年の大宝律令では漆が租税の対象になり、漆の木の栽培や漆工が
奨励されます。
奈良時代、正倉院では蒔絵による金銀や螺鈿細工の漆器が宝物として
数多く奉納されています。
平安時代は貴族文化彩るためには漆塗りの装飾性は欠かせないものでした。
蒔絵や螺鈿の技法が建築物にも使用されるようになります。
貴族の身の回りの用具から棺、宝飾品、宮殿、神社、仏像、宗教的な儀式用品と
特権階級の間に広がってゆきます。
やがて武士の勃興とともに鎧や兜、馬具などの武具もあでやかに漆器細工の
装飾が広がってゆきます。
鎌倉時代は写実的で力強いデザインが中心になってゆきます。
また寺院でも什器に漆工芸品が使われるようになり、根来塗りはこのころ
和歌山根来寺で生まれました。
室町時代の武士階級の漆塗りの有名な建物は足利義満の金閣寺に代表されています。
岩手の奥州藤原氏が建立した中尊寺金色堂は日本の漆技術の粋を集めたものです。
漆工の技術も更に進化をとげてきましが、
貴族や武士階級の特権的な技術であって庶民には手の届かない高嶺の花でした。
日常の道具や食器などは漆塗りをしていない木の地が
そのままの木工品をつかっていました。
|江戸時代に庶民に行渡る漆器
漆器が平民に行き渡りは始めたのは平安時代の後期といわれています。
比較的廉価に製造できる渋下地の技術の開発が広まったのが要因とされますが、
しかし、豪農や豊かな商人の家財としての普及にであり、
一般庶民が日常的に利用できるのは江戸時代になってからのことです。
ようやく長い戦乱も終わり、平和が続く江戸時代になって次第に庶民も経済的な
余裕が生まれてきます。
また幕府や各地の大名も地元の産業の推進のために漆器作りを奨励します。
江戸時代に漆器産地として会津塗、山中塗、飛騨春慶塗、津軽塗、若狭塗りなどの
多彩な産地が形成されてゆきます。
輪島塗も江戸時代に大いに発展しています。
元禄文化の開花は漆器文化を大いに後押ししました。
武士の刀、印籠、キセル入れなど様々な漆装飾が優雅と華美を
争って発展してゆきます。
そんななかで漆塗りのお椀などの食器を庶民も使うようになっています。
日光の東照宮への憧れも江戸庶民は強かったものと考えられます。
庶民にいきわたるとともに大名などの調度品は芸術的な追求を更に深めます。
|ジャパンのはじまり
日本の漆器はジャパンと英語で呼ばれるほど高い評価を受けています。
日本の漆器の輸出は安土桃山時代に始まり、東南アジア、ヨーロッパに伝わり
その華麗さに圧倒されました。
本格的には1609年にオランダの東インド会社を通じて輸出がはじまり、
その美しさからジャパンと漆器が称せられるようになりました。
会津の漆器は江戸時代、明治時代には海外に大いに輸出されて人気を博しています。