会津の歴史

鶴ヶ城

会津の文化を知るために、会津の歴史の大きな流れを簡単に載せておきます。

会津に名前の由来

会津の名前は古くは、沢山の川が合う場所、相津が語源と言われています(津は渡し場という意味があります)。実際に、尾瀬からは只見川、南会津町からは大川、猪苗代湖からは日橋川、飯豊山からは押切川と、会津盆地で出会い、阿賀野川を形成して、日本海に注いでいきます。相津の地名は日本最古の歴書である古事記の登場し、朝廷より東北北陸の平定に派遣された将軍が落ち合った場所とされています。

有史以前

会津地区に人が住み始めたのは、3万年前の旧石器時代であり、その痕跡は会津若松市湊町(みなとまち)の笹山原遺跡群に多くの痕跡を見ることができます。縄文時代では塩川町常世(とこよ)遺跡、高速の磐梯山サービスエリアにある法正尻(ほうしょうじり)遺跡などがあり、縄文時代中期では会津若松市大戸町の本能原(ほんのうはら)遺跡などがあります。弥生の文化も東北地区なかでも早期に始まり、会津若松市大戸町の上雨屋(かみあまや)遺跡や一箕町の墓料(ぼりょう)遺跡などが発掘されています。その後、東北随一の古墳文化を形成していき、多くの巨大古墳が作られていきます。会津大塚山古墳、堂ケ(どうけ)作山(さくやま)古墳、飯盛山古墳、田村山古墳などからは多くの遺物が出土しています。会津は、古くより東北の古代文明の中心でした。

古代~安土桃山

飛鳥奈良の律令体制下では会津地方は陸奥国会津郡の一部でした。平安時代では、朝廷より派遣された奈良の興福寺の僧侶徳一によって現在の磐梯町に建立された慧日寺に支配され、荘園化されてしまいます。しかし、源平の争いで平家についた慧日寺に代わり、源頼朝によって会津地区は葦名氏(あしなし)に与えられます。葦名氏は黒川(現会津若松)に本拠地を置き、東北でも最有力の大名であり、安土桃山時代まで米沢の伊達正宗に敗れまで会津を支配します。

戦国時代~江戸時代

しかし、大名間の争いを禁じた豊臣秀吉は、この争いを咎め、奥州仕置で伊達政宗より会津を没収し、1590年、蒲生氏郷(がもううじさと)に会津を与えることとなります。伊達氏の支配はわずか一年で終わります。蒲生氏郷は近江日野の城主で織田信長の重用され、信長の死後、秀吉に仕えた武将です。秀吉は伊達政宗の押さえとして氏郷を会津に配置したのです。

蒲生氏郷は漆工芸を故郷日野より会津に導入します。さらに氏郷は町の名を黒川から故郷の地名にちなんだ「若松」へと改めました。蒲生氏郷はキリシタン大名としても有名です。多くの領民もキリシタンにかいしゅうして、猪苗代では8割がキリシタン出会ったと言われています。

蒲生氏郷は1595年に急死しますが、その後、その後継の秀行はお家騒動などで秀吉の命令で会津92万石から宇都宮に18万石で移封されます。蒲生氏の後には、上杉謙信の養子である上杉景勝が会津の領主となります。上杉景勝は、1600年の関ケ原で西方についたために、3年で会津から米沢に国替えさせられます。そして東方についた蒲生秀行が、再度会津の領主として1601年復活します。蒲生家は1627年まで会津を支配しますが、後継者がいなかったために養子をとった形で減封され、伊予松山に移されます。その入れ替わりに伊予松山から1627年、加藤嘉明(よしあき)が40万石で転封されてきます。その加藤家も1643年にお家騒動などもあり改易されてしまいます。

会津松平家

加藤家改易後の寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が転封してきます。保科正之は、保科正之は第2代将軍徳川秀忠のご落胤で、第3代将軍家光の異母弟でした。3代目の正容(まさかた)の時代に松平の性を名乗ることが許され、以後、松平家の会津藩となり幕末で続くことになります。

第9代藩主の松平容保(かたもり)の代になると幕末の動乱期を迎えます。1862年に容保は京都守護職となり、更に新撰組を旗下に置いて京都の治安維持に努めます。(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩に従います)戊辰戦争では、新政府軍と戦い会津戦争にいたり、圧倒的な兵力の差で敗れ去り降伏します。このとき、飯盛山で自決した白虎隊の話はあまりにも有名です。

会津の松平家は、明治2年に家名存続が許され、容保の嫡男は会津藩は没収されましたたが、青森の東部に斗南藩(となみはん)を立てます。明治4年(1871年)には廃藩置県の政策によって藩は消滅し、その後青森県になっていきます。1871年の廃藩置県では会津は若松藩となっていましたが、1876年には若松県は福島県(中通り)や磐前県(浜通り)と合併されて福島県になります。また、維新後、容保の家系からは初代参議院議長や福島県知事などを排出し活躍しています。

磐梯山の噴火

会津の歴史で忘れてはならないのは、明治21年(1888年)の猪苗代湖の北に位置する会津磐梯山の大噴火です。北側の裏磐梯の山体崩壊を引き起こし、集落は埋没し477人の死者を出す大災害でした。この噴火によって、皮肉にも磐梯山の北麓では長瀬川が埋没して水をたたえて、桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼などが形成されて、日本でも有数な今の裏磐梯の明媚な風光を作り出し、毎年、多くの観光客を集めています。